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マルクスの錯覚

堂免さんの最後の著書のタイトルは『脱・資本論』ですが、彼の議論は企業利益についてのマルクスの分析を超えているという意味でまさに的確なタイトルだとボクは思うんだ。

--マルクスは企業利益についてどんな風に理解していたんですか。


彼は資本論という有名な著書の中で、利益は資本家が労働者を搾取するところに生まれると述べています。いや、実を言うとボクも読んだわけではないが、解説書にはそう書かれている(笑)。
易しく言うと、マルクスは労働力というものを一種の「商品」としてとらえ、この商品は毎日適量の睡眠と食事を与えれば復活すると考えたんだ。資本家が労働者に給料を払うのはこの復活を保証するためで、労働者は住む家の家賃とパン代があれば毎日復活し、再び自分の労働力を商品として売ることができる。つまり、給料は資本家から見れば労働力を「再生産」するための手段という位置付けとなるんだよ。他の商品は給料などというものを必要としない代わりに復活しないから、労働力は特殊な商品ということになる。

--なんか、非人間的なとらえかたですね。


資本主義の根底には、人間をカネで買える商品ととらえるような冷酷な人間理解が潜んでいるとボクは思うな。それが現在の格差問題にも顔を出しているんだ。
さて、利益と搾取の話に戻ると、資本家は工場を作りそこで労働者にパンを作らせ、労働者はそれを食べて自分の労働力を「再生産」し、翌日もまたパンを焼く。これには1日3時間働けば十分だが、資本家は労働者をもっと働かせてワインも作ろうと考えた。そこで10時間働かせてパンとワインを生産するようになったが、給料は3時間分しか払わなかった。なぜなら、労働力商品を再生産するにはパンだけで十分だからだ。つまり7時間分の給料を搾取したわけで、これが資本家の利益になる、と考えたわけだ。

--そう聞くと、こういう考えもまたありかなと思ってしまいますが、どこがおかしいのでしょうか。


これまで議論してきたおカネの流れを見れば明らかと思う。パンとワインを買ってくれるお客さんは、社会全体としてみた場合、十分居るだろうか。

--低賃金の労働者だけでは足りませんね。


その通り。
マルクスが資本論を書いた時代には、まだ全ての労働者が資本家から給料をもらって働く賃労働者ではなく、たぶんそれ以外の人々、たとえば王侯貴族とか裕福な商人とか、あるいは農家などの非製造業従事者もいれば、外国の消費者もいただろうから、それらの人々が買ってくれると了解していたのかもしれないね。
いずれにせよ、賃労働者以外の外部からのお客が訪れれば、売上の心配がなかったのは確かだな。

--マルクスはおカネの流れについては無頓着だったのですか?


資本論の解説書を読む限り、そんな印象だね。たしかに彼は「交通」という概念を用いて資本主義のプレーヤーたちの関係を論じてはいるみたいだけれど、彼の関心はあくまで生産にあり、生産をめぐる諸関係を経済学的というよりは哲学的に論じているらしいね。
読んでみるとわかるけど、資本論って本はある意味とても深くて、ある意味とんでもなく退屈なんだよ(笑)。そしてその後、利益は悪い資本家が弱い労働者を締め上げて搾取することで生まれるのだから、労働者は団結して資本家をやっつければ理想社会がこの世に誕生するぞ、という革命理論と言うか一種の宗教になってしまったように見えるね。

--堂免信義さんの経済理論がマルクスを超えている点は、おカネの流れを中心にとらえようとしている点ですか。


そう思うよ。さらに言えば企業や消費者といった個々の経済主体の合理的な判断が「社会全体」としては非合理的であるという、哲学で言うところの「合成の誤謬」に焦点を当てている点だとボクは思うな。マルクスの搾取理論は、一企業としてはあり得ても、産業社会全体としては成り立たない合成の誤謬の一例なんだ。

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